深谷(FUKATANI)

 ↑ 深谷ジャンクション跡(長浜方向を見る)

↑ 深谷の築堤(関ケ原方向を見る)。このあたりに分岐器があった。

↑明治24年の地図(分岐線路が記述されている)

↑ 用地地図 「深谷驛」「貨物停車場」との記述が見える。(上方向が南)
(伊吹町史より)

↑ 深谷の築堤下に設けられた水路トンネル。夏場は草に埋もれて見えない。

水路トンネルは3箇所にある。深谷の分岐下、長浜方向線路下、長岡方向線路下である。

「長浜・関ケ原線鉄道の建設にあたって深谷峡谷の工事は極めて難航したもようである。線路の高い築堤が政所川を塞ぎ止めることになり、地元大野木・村木から苦情が出た。」「龍ケ鼻のトンネルと同じ工法で大型のトンネルを作って解決を計った。」 (伊吹町史より)

 

↑ 深谷分岐 左、近江長岡方面、右、春照方面

 

↑ 深谷から、近江長岡方向にすすんだところ。

↑ 近江長岡駅付近より、深谷方向を見る。

撮影 1999年6月


「深谷」の地名について

現在、権威ある地名辞典を見ても「深谷」は掲載されていない。交差点には、「大野木」という近くの集落名の看板が掲げられている。「深谷」については伊吹町史によれば「停車場ではなく、後押し用の機関車がおかれていたところ」との記述がある。開業時にはそうだったのかもしれない。

明治22年、米原・近江長岡・深谷間が開通した段階において、機能としての「ジャンクション」(分岐点)ということになる。一方、深谷駅は明治24年1月開業。これは長浜・深谷間の貨物運転再開と同じ時期であるから、貨物駅ということになる。


深谷分岐に北側の谷に、かつて水車の回る油屋がありました。大正の末に生まれた大八木とくさんは、幼少の頃そこで過ごしました。大八木さんによれば、「道路の北側の上あたりに、石炭カスがあった。なぜこんなところに石炭カスがあるのか不思議に思っていた」「おじさんは英語は知らないが、春照のことをステーションと言っていた。また、長岡駅のこともステーションと言っていた」というお話でした。(1999年7月)

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